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素晴らしき哉(かな)、人生! [DVD] 映画を観て涙を流すことはあっても、嗚咽したのはこの作品が初めてでした。余りにも出来すぎな夢物語と結論付ける冷笑主義者、反発者は放っておきましょう。古き良き時代のMr.アメリカ:名優ジミー・スチュアートの涙と笑顔の記憶と共に、私にとっては嘗ても今もダントツの我が生涯ベスト1。実際、そんな映画ファンは少なくないのではありませんか。監督のフランク・キャプラは貧しいイタリア移民でした。それ故に、どれほど「楽天的な作風すぎる」と揶揄されながらも、真の意味での理想主義者として首尾一貫アメリカン・ドリームを追い続けたのでしょう。曲学阿世を厭わない輩に背を向け、そんな姿勢を貫いたキャプラだからこそ、このような傑作が生み出されたのだと思います。それにしても、ここでのジミー・スチュアートは最高です。ジミー演ずる主人公、住宅金融業を営むジョージ・ベイリーは決して聖人君子ではありません。絶望的な落胆の最中ではあるにせよ、愛しい我が子が来るべきクリスマス・イブに備えて練習している拙いピアノを、「耳障りだ!」と切って捨てちゃうようなお父さんです。それでも義理人情も人望も誰より厚いからこそ、愛息達は「早くいつものパパになりますように」と健気に祈り、奇跡一閃ラストの大団円がやって来る!果たして観客のカタルシスもここに極まれり。愛妻役のドナ・リードとの仲睦まじさを心底讃えながら、私達はふと気がついて苦笑するでしょう。「素晴らしき哉、人生!」と。そして、「素晴らしき哉、映画よ!」と。
スウィング・ホェン・ユーアー・ウィニング 感激!の一言に尽きますね。ファーストアルバムからのファンなんですが、今までのアルバムから繰り返し垣間見ることができる、彼の素顔みたいなものがこのアルバムで全部見ることができたような気がしました。

これまでのアルバムでの彼のエッジのきいたシャウトは、あまりこのアルバムには出てきませんが、それだけに力を抜いて素直な感じで歌う彼の声は本当に美しいです。ニコール・キッドマンが涙したというのもうなずける。

ほとんどの曲はどこかで聴いたことがあるけど、誰の曲かわからなかったような曲ばかり。私はこのアルバムを機にあまり聞かなかったジャンルの音楽も聴いてみようかなという気になりました。


タイソンはなぜ耳を噛み切ったのか (小学館文庫) 1997年6月28日、MGMグランド・ガーデンで、タイソンは試合中に王者ホリフィールドの耳を噛み切った。この衝撃的な事件の背景を、タイソンの生い立ち、さらにヘビー級ボクシングの歴史を概観することで説明しようと試みる。そして著者は「喪失」という言葉をキーワードに、タイソンがこの凶行に至るまでの軌跡を辿る。

アラーの神さえも救えなかったタイソンの「喪失」はとてつもなく大きなものだった。そしてこの喪失がタイソンを精神的に追い詰め、この凶行が起こり得る素地を提供したことは間違いないだろう。しかし、この喪失のせいで「ルールをはずれた凶行に及ばざるを得なかった」(251頁)とすぐに結論づけるのは、因果関係があまりにも直線的すぎる気がする。現にホリフィールドも、アマチュア時代に「試合中に怒りのあまりマウスピースを吐き出して相手の肩に噛みつくという事件を引き起こしている」(225頁)。タイソンだけが特別だとは思わない。過去の精神的軌跡にその直接的原因を探ろうとしても、因果関係が曖昧すぎて限界があるのではないだろうか。

自分としては、少年期に犯した数々の犯罪同様、その場で触発されて条件反射的に起こしたという性格の方が強い気がする。つまりより直接的な原因とは、ホリィのクレバーな戦略とその結果として多発したタイソンへのバッティングとクリンチであり、それに苛立ったタイソンがとっさに起こした反応だったろう。タイソンの生い立ちが土台となりつつも、直接の契機は試合そのものにあったように思う。(もちろん筆者は「私はボクシングの専門家ではないので、専門的なテクニックの面からそれについて語るつもりは毛頭ない。そうではなく、私は作家として、タイソンの人間的な側面から、それについて語りたいと思っている」(15〜16頁)と断っており、この批判はあたらないかも知れないが。)

しかし、この本がタイソンの一面にすぎない「野獣性」を、他の側面、すなわち度重なる仲間の喪失の結果生まれた、癒されることを拒絶する孤独と人間不信に光を当てることで、中和していることの意義は強調されよう。全体的には極めてバランスの取れた論であると思う。

ところでこのタイソンの心の闇を神さえも救うことができなかった訳について、「解説」で香川照之が述べていることは示唆に富む。

天に神様がいるわけではない。自分の中に、私は唯一無二の存在ですという全的充足を見いだす奇蹟の中核を、便宜上『神』と呼ぶのである。(中略)おそらく、タイソンがアラーの神に触れることによって見つけたものとは、残念ながら自らの神性ではなく――単にアラーの神の、崇高で誇り高い姿そのままでしかなかったのではないだろうか。つまりタイソンには、自分の中に『神』を見いだすためのスペースが、もうどこにも残っていなかったのではなかろうか。(259〜260頁)

イスラム教に帰依しても、タイソンには「(個人に内面化されたものとしての)神」は見えていなかった。「神」の内面化を必要とする信仰は、自分の外にしか充足の対象を見出し得なかったタイソンには持ち得ないものだった。

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